管理人の留学思い出 1. 渡航日

現在、留学業者として生徒を送り出している立場の者としては、生徒の渡航日はとても重要な日で、
『いってらっしゃい!楽しいも苦しいも、全部自分の糧だよ!頑張って!』とニコニコしながら送り出している。
当の生徒も良い笑顔で、『これまでありがとうございました、いってきます!』と言ってくれるハートフルな一日になります。
空港に行くと様々な渡航者がいますが、やっぱり出国ゲートをくぐる留学生が一番キラキラしてて一番良い。

自分の時はどうだったかなあ、きっと負のオーラ滲み出てただろうなあ。。と思い出す今日この頃。

2009年1月某日 この日、僕は日本を発とうとしていた。一生に一回の留学の始まりでした。
そんな日にもかかわらず、空港に向かう足取りが死ぬほど重かったのを思い出す。
というのも、これから単身アメリカに入ろうとしているにもかかわらず、所持品は

・5万円
・パスポート
・その他衣類

のみ、ということに加えて、留学生が出国の際に必須のI-20という書類を家に忘れてきていた。
成田空港到着少し前で気付き、母に電話をして届けてもらうことになったが、もはやフライトの時間に間に合うかわからないくらいだった。
数時間前に格好良いセリフ(誇ってもらえる息子になってくるぜ系)と共に別れを告げた母にこんなどうしようもない頼みをするのが本当に気が引けたのを覚えている。

極めつけに、現地での滞在先は決まっていなかった。
計画時に現地で安宿探そう精神でケチったのが失敗だった。言うまでもなくめちゃくちゃ後悔していた。

この日のポジティブな点を挙げると地元の友人の渡辺君が成田まで見送りで付いてきてくれていたので、その点はすごく心強かった。
頭の切れる男で、ユーモアがあり、僕が信頼を置く友人のひとりなのだが、基本性能として頭悪めなのが玉に瑕なところがある。
この時も僕を和ませようとしているのか、普通に話したくて話していたのかは分からないが、

『この間竹ぼうきに火をつけたらすごい燃えた、BLEACHで言うところの流刃若火だった。あれは卍解だった。』と興奮気味に話してくれていた。

渡辺くん。道中の京王線にて。

そんな毒にも薬にもならない話を聞いていたら空港に着いた。ひとりだったら不安で吐いていたと思うので、その点は付いてきてもらえて本当に良かった。

空港に着くやいなや、フライトに間に合う前提で発券手続きをすることにした。
渡辺君と相談をして『何とかなるべ!何より暇だからやっちゃおうぜ』と結論に至ったのを覚えている。
(※こんな時はまず航空会社の方、そして留学業者に相談してください!上記は馬鹿だからこう判断しています!)

この時点でフライト2時間前、『暇だから飛行機でも見ようか?』と話していると、地元の友人から電話があった。
なんでも見送りの為にサプライズで駆けつけてくれたとのことで、情緒不安定な僕は涙ながらに喜んだ。
粋なこの友人達は、僕がホームシックにならないように日本食や日本茶、陶器の湯飲みなどを持ってきてくれた。
渡航に際してそこまで頭が回らなかったので本当に有難かったのを覚えている。
この時、この友人達に将来的になんとか報いたいなあ、と心に強く刻んだのだが、現時点で大した恩返しをできていない。
帰国の度にリンツのチョコをお土産であげたくらいだ。これからもっと頑張ろうと書いていて思った。。

そうこうしているうちに、頼りの母が無事にI-20を空港まで持ってきてくれた。これでフライトに間に合った。つくづく大恩人である。
この母にも何とか報いたいなあ、と強く思ったものだが、やはり親孝行ができているか疑問だ。
帰国の度にリンツのチョコをお土産であげたり、ふるさと納税の返礼品の送り先として設定しているくらいだ。またしてももっと頑張ろうと思った。。

こうして大円団な感じで僕は日本を発つことができた。
誰かに見送りに来てもらえると本当に心強いし、感謝というものを実感できるから皆さんにはお勧めです。
自分から頼むのが恥ずかしいと思う人も、だまされたと思って家族友人に声をかけてみよう!
僕は癖になって帰国の度に見送り出迎えを頼んでいました。笑

余談にはなるが、
この場での最後の会話は渡辺君とで、帰りの電車賃がないから金を貸してくれとのことだった。

なんでも成田までの電車賃がこんなに高いと思わなかったらしい。。5万円しか持っていなかったが、気持ちが嬉しかったので1万円貸した。
そしてこの後、すぐに1万円の重みを再確認することになった。

~~続く~~

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

留学に関するどんな質問でも24時間受付中

LINEでお問い合わせ